今や、13人に1人とも、20人に1人ともいわれている、いわゆる「LGBT」の方。
その(ように感じる)生徒に、出会うことがありますが、実際のところ、割合を聞いて
「そんなに、多くいるのか?」
というのが、素直な感想でした。
本日は、そんな私が、LGBTの生徒に「どう向き合ったか」なども含めて
教育現場がLGBTの生徒に対して、どうしてあげるべきか?
を、考えてみたいと思います。
目次
実際に出会った、LGBTの生徒。学校の様子
私は、十余年の教師人生なので、延べ3,000人くらいの生徒に関わってきてたことになります。
そんな私が出会ったLGBTの生徒は、3人。
言葉を足せば(語弊かもしれませんが)
見える形で、出会った生徒が3人
ということになります。
「地方か都市部か」「小中学校か高校か」という違いも、かなり大きなポイントだと思います。※ちなみに私は「地方の高校」
私が出会った彼や彼女は、(比較的)アイデンティティを確立できていて、学校生活において、特に大きな問題になるような事案は、発生しなかったです。
特に大きな問題がおこらなかった、その要因は
彼や彼女の周りに理解があった(または、恵まれた)のかもしれませんし
程度の強弱があるとすれば、軽かっただけかもしれません。
ただ、一つ言えることは
彼や彼女ら自身で、LGBTという事実を「受け入れてきた」「対応してきた」ということだと感じます。
例えば、ある生徒の場合。
この生徒は、いわゆるトランスジェンダーだと思うのですが(性的指向までは聞いたことがないから、詳細は不明。)
- 外的判断では「男子」(学校での扱い方も男子)
- しゃべり方(話し方)や仕草は、「女性的」
- 物事のとらえ方や価値観も、「女性的」
- 話し相手は、「男子も女子も」いた
そんな生徒がいました。
トランスジェンダーの方に多い悩みの一つとして、「トイレ」の問題があるそうです。
自認している性別のトイレに入りたいのに、世間が、他人が、それを許してくれない。
その生徒は、学校に設置された「障害者用トイレ(多機能トイレ)」を使うことが、多かったです。
その学校の障害者用トイレは
- 男女兼用で、車イスでも入れるように、広く設計されている
- レイアウトの関係上、本校舎(授業をしている教室など)とは違う場所(建物)に設置されている
そんなトイレでした。
特に、教師側が使うよう指示したわけでもありませんが、その生徒は、そのトイレを使うようにしていました。
手足が不自由では無いのに障害者用トイレを使うことに、ためらいがあったかもしれませんし、遠くて不便に思っていたかも知れません。
はたまた、「そんなこと、いちいち気にしていない。」と思っていたかも。
そしてトイレ以上に、学校生活で「男女」を明確に分け、かつ、分けないと(教育上)困ることがあります。
制服や、出席簿ではありません。
学校行事の一つである、修学旅行です。
その生徒がいた学校の修学旅行では
- 2~3人で1つの部屋を利用
- 他の宿泊客に対する配慮から、全生徒に「原則、部屋の風呂に入るように。」と指導(修学旅行生って、一般客からすると”迷惑”ですからね。)
- その生徒の同室には「男子生徒」
この状態で、修学旅行に参加しました。
旅行中、その生徒の嫌な素振りや、辛い表情は見なかったですし、他の生徒と変わらず、楽しんでいるように見えました。
トイレにしろ、お風呂にしろ、こちらからいちいち「あーしろ」「こーしろ」と言ったことは無かったです。
学校行事にかかわらず、学校生活全般において、それなりに楽しんでいるようにさえ見えました。
学生時分に抱きやすい”悩み”や”葛藤”は、もちろんありましたけどね。
アイデンティティを確立するために、そういう振る舞いをするしかなかった可能性もありますが
いずれにしても、私が出会ったLGBTの生徒達は
見えるかたち
として、学校生活を送っていました。
そのためには、少なくとも
彼や彼女ら自身で、LGBTという事実を「受け入れて、対応してきた」ということ
だと思います。
教師として、LGBTの生徒に対して何が必要か?
私は、LGBTの知識を十分に持っているわけではありません。
ぶっちゃけ「マツコデラックス」「はるな愛」「ミッツマングローブ」の違いも、きちんと説明することができません。
テレビでよく目にする「組合の方」という、カテゴリーで分けちゃいがちです。
そんな私の意識レベル、知識レベルですが、それでも
- 彼ら(彼女ら)に対して
- 彼ら(彼女ら)と一緒に過ごす生徒達に対して
ある2つのコトを意識して、接してきました。
そして、
教師が「何か特別なことをしてあげよう」と思う方が、間違っている
とさえ、思っています。
目に見えないものがあることを、理解すること
人は、目に見えないモノが理解しにくいです。
そして、それが見えるようになったとき
「驚き」「感動」「恐怖」「喜び」
など、様々な感情を抱きます。
今、あなたの手のひらを見て、うごめく生物たちを見られますか?
でも、実際には数百~数万もの生物たちが、うごめいています。
「愛しているよ」「ありがとう」といった、形が見えない思いも、プレゼントという「形になって見える」ようになったら、どうですか?
夜空(宇宙)を見上げて、「何も無い」と思っている大部分も、本当は「なにかが存在している」ということを知っていましたか?
人は、ついつい
見えるものについてのみ、語り、理解し(誤解し)、存在すると認識する。
見えないものについては、「悪魔の証明」にも似ていますが、当然に
「存在しない」
と思ってしまう。
でも、この世の中なんか、見えないものの方が、圧倒的に多い。
「人と会う」ということも、そう。
全人類と面と向かって会うためには、休みなく、連日夜通しで会い続けても、220年以上の時間が必要です。
※1人1秒、70億人すべてだと、1年=約3,150万秒なので、70億÷3150万=約222
見えない(出会えない)人の方が、圧倒的に多いんです。物理的に不可能に近いから。
人をモノあつかいするのは、どうかとも思うけど、人に限らず
「見えないモノが、存在している」という認識をもつことが大事。
肯定する、といってもいいかな。
LGBTの人たちの多くは、中学生頃から、自身の性に対して「違和感を持ち」始めるそうです。
そして、その多くは、誰にも打ち明けることなく「見えない状態で」、生きていく。
だからこそ、13人や20人に1人の割合で存在しているハズなのに
延べ3,000人に出会って、わずか3人しかLGBTの生徒に出会ってこなかった(と誤解している)のかもしれない。
「見えないモノを否定するのではなく、存在していて当然だ」と思うコト
このことを、指導する立場の我々教師は、常に理解しておくべきだと感じます。
もちろん彼、彼女たちに、関わる生徒も。
これを忘れていると、つい「見えているモノがあたり前」となってしまい、それ故知らないうちに
「見えないモノの存在を、否定する」という考えにいたり、その発言で、誰かを傷つけることがあります。
失敗は、程度により、悪いことばかりじゃないし、自身の成長につながる部分なので、必要以上に失敗を恐れるのは、よくないと思います。
私も、知らないうちに生徒を傷つけていた、という過去があります。
しかし、「飲酒運転」や「いじめ」もそうですけど
「命を奪ってしまう」ほどの失敗は、絶対に許されない。
あなたは「大したことじゃない。」と思っていたとしても、思慮が浅かったが故、相手の「命を奪ってしまった」ということが、起こりうるかもしれません。
LGBTに関して言えば、6割以上の人が「自殺を考え」、1割以上の人が「自殺未遂」をしたことがあるそうです。
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そして、そのきっかけが「誹謗中傷」なども含めて、誰かが発した言葉や情報によって
「自分は、存在してダメなんだ」
という、自尊感情の低さ、または孤独を感じるからなのだそう。
教師は、神でも仏でもない。
だからこそ、失敗もするし、間違いも犯す。
常に正解を伝えることも出来ないし、そもそも
「教師は、常に正解を与え続けなくてはダメだ。」とも、思っていない。
生徒の人生は、生徒自身が決める。
そのために教師が出来る事なんて、本当に限られている。
ただ
「自尊感情が低い」「自分は存在してはいけない」と思っている人たちからすると
教師の何気ないひとことが、「生きる希望」にもなるし、「死にたくなるほどの絶望」にもなる。
このことは、確かな事実だと思う。
あなたの価値観の中に
「見えないモノは、存在していない」
ってこと、ありませんか?
それ、本当はスゴイ危険なことかもしれませんよ?
まずは
「見えないモノも、存在している」
このコトを理解することが大事です。
そんな時代じゃない
これは、本当の意味で正しくない発言かも知れませんし、根本的解決にもなってないかもしれません。
それでも
私の教師人生の中だけで言えば、「生徒達に向けて話した結果、悪い方向にはたらいた。」ということはなかったから、あくまで
「いち、地方高校教師の発言例」
として聞いて下さい。
「そんな、時代じゃない。」
昔は、保毛尾田保毛男を見て「おもしろい」と感じていた世間の風潮(そうでも無いか?)も、今はそうじゃない。
自民党の竹下亘が「(国賓の)パートナーが同性だった場合、私は(晩餐会への出席には)反対だ。日本国の伝統には合わないと思う。」と
伝統(過去の風習)を持ち出して、言及した結果、社会問題となっているのも、根源は同じように思う。
「そんな、時代じゃない」
小中学生なら特にそうだけど、流行とか敏感な割に、手の届く範囲が世界のすべてだと思ってしまう。
その視野を広げるためにも、高校や大学といった「高等教育」があるハズなんだけど、そうでも無くなっている現状・・・。
すべてを時代のせいにする、という意味じゃ無くて
時代は、変わるもの
このコトに気づかせてあげることが大事なのではないでしょうか?
移ろいゆく時代で生きていくために、何が必要で、何があると便利なのか?を教えればいいと思う。
話を戻すと
「誰が男で、誰が女で、男はどうあるべきで、女はどうあるべきか」なんてこと
今の時代じゃ、考えない
ってこと。
TPOに応じて、性別を明確にする必要はあると思います。
ただ、AIの開発が進み、ロボット化がますます普及・浸透していけば、より一層この考えや、時代にあった価値観ってのが、定着してくるんじゃないかな?って思います。
最後に
2013年にニュージーランドで同性婚を認める法案演説が話題になったのですが、私にとって、「ハッと」させられる内容で、非常にすばらしかったので、紹介したいと思います。
2013年にニュージーランドで同性婚を認める法案が出来たとき、賛成票を投じた1人のおじさん議員が議会で語った内容。
当時も世界中で賞賛されたスピーチ。知らない若い人に向けて。 pic.twitter.com/3acOEvHhKN— ブルドッグ (@Bulldog_noh8) 2017年11月25日
同性婚についての内容もさることながら、教師としては
彼の「スピーチ力」は、見習いたいものがあります。
私なんて、せいぜいこの程度・・・。
教師だけど話すのが苦手なあなたに、おススメしたい簡単な4つのテクニック
見習いたい解答力ー解答力と質問力を身につけたいと思わせてくれた、「秀逸」と話題の#ドンキさんのツイート
ご覧になっていない方は、是非一度は見ていただきたいです。
まとめ
LGBTの生徒を、特別扱いするとか、そういう話ではないです。
見えるかたち
になれば、あとは上手いこと彼や彼ら自身が、上手いこと生きていく、という当たり前のこと。
他の生徒とと同様に。
問題(苦労するの)は、見えない時をどう過ごすか?過ごさせてあげられるか?ってこと。
他力本願(ともすれば職務放棄)とも受け取られないかもしれませんが、見えない時(見えない生徒)の方が、圧倒的に多い(はず)。
見えない理由は、偏見だったり、自分への不利益を考えてだったり、複雑で様々。
教師だけの力で「見せられるようにしてあげる」ことは、不可能に近いと思う。
だって、生徒の中で、同じ生徒として、成長していくのだから。
確かなことは
教師の言葉ひとつで、「希望」にも「絶望」にも変わってしまうかも知れない。
ということ。
私たちに必要なのは、LBGTに限らず、生徒に対して
見えないモノも存在している、ということを理解させてあげること。
これが、一番大事だと感じます。
もちろん、教師が「深く正しい知識を身につける」ということが出来れば、なお良しですけどね。
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このことが、とりあえず、十余年教師をしてきた経験から気づいた、私なりの答えです。
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