高校で授業をしていた時に、何度か質問を受けたことがあります。
「先生、何で〇〇を勉強しなくてはいけないんですか?」
〇〇には、私の担当教科が入ったり(物理)、嫌いな教科や苦手な教科だったり。
まぁ、質問をする生徒の思惑としては
「勉強したって無意味でしょ?」
「めんどくさい」
「〇〇の先生が嫌い」
ってことあたりを言いたいんでしょうが
その科目を私が好きだった場合、若しくは自分の専門科目以外で、その科目を教えている同僚がそう思われているのか・・・と思うと
返答に困る時が、過去にありました。
少なくとも、教師というのはその担当科目(分野)が好きで、質問をしてくる生徒はどちらかというとアンチなわけで。
そんな端から否定しているであろう生徒に対して
「おもしろくて好きだからだよ。え?なぜ好きなのか?こんなにも魅力が詰まっているからよ。」
などという話をしたところで、なかなか伝わらなかったりもしますよね。
本日は、「何でいろんな教科を勉強しなくてはいけないの?」っていう質問に対して、私なりの考えをお話しします。
目次
「必要だから」は、果たしてそうか?
私自身も学生の頃にこの疑問を抱いていました。
特に、中学生よりも高校生の時に、強く思った覚えがあります。
英語の勉強に価値を見出せない人は
「日本から出ないし。」
って答えるし、数学が嫌いな人は
「数式なんか覚えなくても算数ができれば十分だし、計算機やパソコン、スマホがあるし。」
って答えます。
確かに、どれも一理あるなぁと今でも思います。
私自身が当時の教師に聞いた時の答えもコレでしたが、ひょっとすると今これを読んでいるあなたも
「何で勉強しなくちゃいけないの?」と聞かれたらこう答えるかもしれませんね。
「必要な知識だから」
これ、何に必要なのでしょうか。
大学入試?生きていく為?
(一方的に)与えられた知識で、生きていく為に必要になってくるものなんて、小学校(若しくは中学校)の義務教育内で終了していることがほとんどです。
特に算数と国語。
これは「必要な知識」といっていいと思います。
しかし、その他大勢の科目に関して言えば(特に高校で学ぶものに関しては)
知らなくても、生きてはいける
このこと自体に大きな間違いはありません。
それにも関わらず、「必要だから」と言われて、ピンとこないのは当然じゃありませんか?
「何で勉強しなくちゃいけないの?」
と疑問に思っている人は
「自分の中で、その教科に対する魅力も得も一切感じず、自分にメリットがあるように到底思えない。」
「苦痛なだけ。」
という状態です。
だから、このような疑問をぶつけているんですよね。
自分が知りたい知識や内容を学んでいるときは、「何で勉強するのか?」という疑問は抱きませんよね?
ましてやそれを教えてくれている教師に向かって、「勉強する意味あるのか?」なんて質問なんかしません。
なぜなら、その知識や学問が
自分にとって(生きていく上で)必要だからと感じているから
です。
若しくは単純に楽しいと感じているだけかも知れませんが。
今習っている科目のおもしろみも感じられない、必要だとも感じられない。
そう感じている相手(生徒)に対して
「必要だから、勉強するのよ」
は、ちょっと通用しない気がします。
視点を広げるため(三次元アリ)
あなたは、宇宙兄弟という漫画(アニメ)をご存じでしょうか。
謎のUFOを目撃した、兄(南波六太、ナンバムッタ)とその弟の日々人(ヒビト)は、「一緒に宇宙飛行士になろう」と誓い合い、夢を叶え宇宙飛行士となった弟の日々人。
日々人は、第1次月面長期滞在クルーの一員として、間もなく日本人初となる月面歩行者として歴史に名を残そうとしていた。
一方兄の六太は、勤めていた会社をクビになってしまい、鬱屈した日々を送っていた。そんな六太の下に、JAXAから宇宙飛行士選抜の書類審査通過の通知が送られてくる。
それは、共に宇宙を目指すという夢を諦めない弟の日々人が応募したものであった。
いつの頃からか、宇宙飛行士になることを諦めていた六太は、再び宇宙を目指すことを決意する。引用 ウィキペディア
兄弟で宇宙飛行士になる、さらには
宇宙飛行士になってから様々な問題に直面し、それを乗り越えていく
という、どちらかというと
サクセスストーリーが主の漫画です。
この宇宙兄弟の第3巻に
「三次元アリ」
と言う話があります。
簡単にお話の内容を話すと
まずは、自分を
線の上を前後だけにしか歩けない「一次元アリ」
だと思ってください。
そのルート上に私が石を置いたとします。
そうすると、「一次元アリ」は前に進むことができません。
「一次元アリ」にとって、世界の終わりです。
そこに、前後と左右に移動することができる「二次元アリ」がやってきます。
「二次元アリ」は、その小石を見て
「横に回っていけばいいじゃないか。」
といい、小石を超えて先に進むことができます。
歩いていくと、今度は横方向にもずっとつながっている壁があったとします。
このままでは壁の向こう側には行けません。
「二次元アリ」にとって、世界の終わりです。
そこに今度は、前後と左右と上下にも行ける「三次元アリ」がやってきます。
「三次元アリ」は、その壁を見て言います。
「乗り越えればいいじゃないか」と。
そうして三次元アリは、壁を超えて先に進むことができます。
新しい世界を突き進むことができるというわけです。
あくまでたとえ話であり、宇宙飛行士の野口聡一さんのお言葉らしいのですが
この作品の中で伝えたいことは
- 別の視点を持つことで、気がつくことがあるんじゃないか
- 宇宙に人間が行くということは、単に遠くの星に行くことだけではなくて、地上で私たちが抱えている問題を新しい視点から見て解くことができるんじゃないか
というお話です。
(実際の漫画では、この言葉を引き合いに出して、兄の六太が弟の日々人を認めていたり、モノの価値観・視野の広げ方なんかについても学べる内容になっています。私の説明ではうまく伝わっていないと思うので、もどかしいですが、本当はもっと熱い内容なので、是非一度は読んでいただきたい話です。)
視点を広げるために様々な科目を勉強する
なんで勉強しなきゃいけないの?という問いに対して
「視点を広げる為だよ」
っていうのは、これはこれでありかな、と思います。
先ほどアリで説明しましたが
視点が広くないと(考えに柔軟性が無いと)、超えられない壁が出て来たときに、そこで詰む事態になります。
「別に、視野なんか広げたくないし。」
と言う人は、そこまでの人生で納得できるんだと思います。
ただ、可能性という不確定な要素にはなりますが
壁が出たときに柔軟な発想(広い視野)をもっていれば、乗り越えられる方法が生まれるかもしれません。
その方法を生み出すためには、偏りのすくない、様々な角度による、幅広い知識が必要になることも多いと思います。
なので、「何で〇〇を勉強しなくてはいけないんですか?」という問いに対して
「視点を広げるためだよ」
ってのは、単に「必要だから」というよりは、説得力があるように感じます。
外国通貨で貯金していることと同じ
最後になりますが、私は「何で〇〇を勉強しなくてはいけないんですか?」という問いに対しては、こう答えています。
「外国通貨で、貯金していることと同じ事だよ」
って。
知識=財産
知識は財産となります。
お金と一緒です。
生活が豊かになります。
もしくは豊かにする可能性をもっています。
お金と決定的に違うのは
反対に
お金は使わなければ無くなることはありませんが、知識は使わなければ無くなります。
さらに
盗んだ犯人を見つけるとか、損害賠償は一端置いておいてください(笑)
アイディアをパクられたといっても、自分の知識が消えることはありませんよね?ってことを言いたいです。
このように、お金と知識は反対の性質を持っていますが、どちらも財産です。
これを基に「何で〇〇を勉強しなくてはいけないんですか?」と言う問いに対して
「財産(知識)を蓄えるため」
「幸せになるため(または人生を豊かにするため)」
と答えるのもありだと思いますが、私は更にもう一歩踏み込んで答えています。
すぐには使えないかも知れないが、資産価値としては十分持っている外国通貨
この章冒頭でお話ししたとおり、私が「何で〇〇を勉強しなくてはいけないんですか?」と聞かれたら
「外国通貨で貯金していることと同じ事だよ」
と答えるといいました。
どうせ貯金するなら日本円で貯金したいですよね。
必要と思えばすぐに使えるし、資産としてわかりやすいし。
これって教育に置き換えると、小学校での教育だと思うんです。
特に、算数や国語。
生きていく為に、直結する学問。
これを考えちゃうから、高校で様々な勉強をすると、ついつい
「こんな勉強しても役に立たない(=役に立たないに決まっている、と決めつける)」
ことになるわけです。
しかし、日本円以外にも貨幣は当然存在しています。
ドル、ユーロ、ポンド、元、ウォン・・・
それぞれを主要通貨として生活している人々もたくさん居ますし、むしろ世界の視点からみると日本円を使っている人口は少ない部類に入るかも知れません。
100ドルは価値が無いですか?
記事を書いている2017年8月17日11時現在ではおよそ11,000円の価値があります。
しかし、日本に住んでいて、100ドルを使える場所は限定されると思います。
高校で勉強する内容って、その価値を見いだせない人にとってみると
「外国通貨で貯金すること」
この行為が
「価値が無いことをしている」と判断してしまっている
と私は思うのです。
使わなくても、財産として一旦は蓄えられるし、その後使わなければ知識は自然と無くなっていく。
場合に応じて、又は必要に迫られてその財産が生かされる事もあるだろうから、決して無駄なことではない。
しかし
- 即効性があるか?
- 生活に直結している財産か?
というと、外国通貨だから、必ずしもそうとは限らない。
いらなければ、使わなければいいだけのこと。
お金と違って使わないでおくと知識は自然と無くなっていくから。
「それなら、はじめから無くていいやん、無駄やん。」
というのは間違いで、そもそも貨幣自体の価値は存在しているので、無駄じゃないです。
望まなかったとしても、自身の財産は増えているわけですからね。
あくまで、無駄にするのは、自身の不作為によるものです。
この話が難しかったら、宝くじでもいいかもしれませんね。
宝くじ自体は、300円の価値しかありません。
もし当たっていたとしても換金しなければ(必要に応じて使わなければ)、価値はありません。
放っておいたら有効期限がきれて、ただの紙切れになるだけです。
ただ、宝くじだと、価値が出るかどうかが、自分の行動によらず「運」次第なので、ちょっと違うな、と思います。
まとめ
なぜ勉強しなくてはいけないのですか?の問いに対する、私の答えは
「外国のお金で貯金することと同じだよ」
と、当を得てるのかどうなのかわからない感じで答えています。
数学の100ドルも、理科の100ユーロも、どれもそれぞれに価値は存在しているし、必要に応じて使うことも出来るし、その結果豊かに暮らすことだって出来る。
増やすことも出来るかも知れない。
一見すると時間の無駄に思えるかも知れないし、実際使う機会がなければ、100ドルも100ユーロもいつの間にか使うことが出来なくなってしまう。
それでも、これから先のあるあなたたち(生徒達)に対して、「こいつは使わない可能性が高そうだから、100ドルの数学の知識や、100ユーロの理科の知識を紹介しないでおこう。」というのは、違うことだから、私達は一律に授業をしているんだよ。
あわよくば、100ドルや100ユーロそのものの価値や楽しさ、魅力に気づいて欲しいっていう願いもあるしね。
と。
ちょっと詭弁だったりきれい事のようにも聞こえますが、「先生、何で〇〇を勉強しなくてはいけないんですか?」と聞かれて困っている先生の一助になれば幸いです。
特に、若い先生には、生徒から共感を求められることが多いと思うので、是非参考にしてもらいたいですね。